やさしくしているのに愛されない理由

こんにちは、あるいはこんばんは。品田沙織です。


この記事は、アメブロでご紹介したやさしくすることで、愛されようとしてた…それが私の癖だったの内容をさらに深掘りした“アメブロ+α”の記事です。

Contents

やさしくしても愛されない理由

やさしさは“愛される戦略”だった

気づいたのは、少し前のことです。
私は「やさしくしたいと思って、やさしくしていた」

…のではなく。

“愛されるためにやさしくしていた”ことが多かったのだと。

誰かの役に立とうとする。
迷惑をかけないようにする。
常に気を配って、先回りして、空気を読む。

それは、表面上は「いい人」「思いやりのある人」に見えていたかもしれません。

でも、心のどこかで私は思っていました。

「こうしていれば、きっと私のことを嫌わないよね」
「やさしくしていれば、私を必要としてもらえるよね」

そうやって、相手の反応を無意識に操作しようとしていたところがあったように思います。

心理学では、「人間関係は自分の内面の投影」だと言われます。

私が“やさしさ”で関係を築こうとしていた背景には、
「私はそのままでは愛されない」という思い込みが根っこにあったのだと思います。

やさしくしなければ、私は受け入れてもらえない。
だから、やさしさは私の“戦略”であり、同時に“鎧”でもあったのです。

本音と演じた自分のズレ

やさしくしているときの私は、確かに「ありがとう」と言われたり、
「やさしいね」と褒められると、表面的にはうまくやれているように感じていました。

でも、心の奥ではいつも少しだけ苦しくて、
そして、いつもどこかで疲れていました。

その理由は、私は「本当の私」ではなく、
“こうあるべき私”を演じていたからだったんです。

本当は疲れていたのに、にこにこしていた。
本当は断りたかったのに、笑顔で引き受けた。
本当は一人になりたかったのに、大丈夫なふりをした。

やさしくすることで人に好かれたとしても、
それは“私の中身”ではなく、
“私の演技”が愛された結果だったのです。
そう感じてしまった瞬間が、何度もありました。

「いい人」でいなきゃ。
「わかってあげられる私」でいなきゃ。
そう思ってふるまい続けたそのやさしさは、
ほんとうは、自分を守るための鎧でもありました。

誰かにとっての“理想の私”を演じることで、
私は、自分の本音をずっと脇に置いてきた。
笑いたくないときもあったし、
やさしくなんかしたくないときも、本当はあった。

でも、それを見せたら嫌われてしまう気がして、
私は、黙って笑ってごまかしていたんです。

心の世界ではこんな風に言われています。
自己承認が不足しているとき、人は「外からの承認」で自分の価値を埋めようとする

私にとってのやさしさは、私を認めて」「私を見捨てないで」という、
静かで切実なサインだったのかもしれません。

ズレていたのは、相手との関係だけじゃなくて、
“私と私自身”との関係だった。

誰かにわかってほしくて、人とつながりたくて、
一生懸命その人にやさしくしていたはずなのに…。

気づいたら、自分の気持ちや本音はどんどん置き去りになっていました。

誰かとのつながりを求めるその行動が、
いつの間にか“自分自身とのつながり”を薄めていたんです。

やさしさの裏にあった思い

私は、ずっと自分のことを「やさしい人間」だと思っていました。

でも、優しくしている“つもり”だったけれど、
本当は、嫌われるのが怖かったんです。

できれば、そんな気持ちなんて見たくなかった。
見つけたとしても、気づかないふりをしたかった。
でも、心のどこかではわかっていたんです。

あのやさしさは、
誰かのためというより、自分の存在価値を確かめるためのものだったって。

「こんなに気を使ってるのに、なんで伝わらないの?」
「私ばっかり我慢してる…」

そうやって心の中で不満を抱えていたのも、
本当は、やさしさに“見返り”を期待していたからだったのかもしれません。

やさしくしている自分でいれば、
私の存在は認められる。
そう信じたくて、そうふるまっていた。
でもそれはもう、やさしさじゃなくて“自己防衛”だったのだと思います。

自分のやさしさが、ただの“自己防衛”だったなんて、
できれば、気づきたくなかったし、認めたくない気持ちがありました。
自分に対しての恥ずかしさや浅ましさ、そうやって自分を責める気持ちも出てきました。

でも、それでも認めたとき…
やっと、背伸びしなくていい場所に、自分を置いてあげられた気がしたんです。

やさしさを“使う”のではなく、
やさしく“ありたい”と願う自分に。

やさしくあることと、やさしく見せることは、違う。

その違いに気づけたとき、私はようやく、
自分の中のほんとうのやさしさと出会えたように思います。

でも、そこにたどり着くまでには、どうして私はそんなふうに頑張り続けてしまったのか…
その裏側にあった、もっと深い「不安」とも向き合う必要がありました。

やさしさの奥にある不安~それでも人を思うあなたへ~

「やさしくすることで、愛されようとしていた」

このことに気づいたとき、胸の奥がチクチクして、涙がにじんでいました。

誰かを思いやるつもりで重ねてきたやさしさは、
実は「嫌われたくない」「置いていかれたくない」そんな不安を隠すための“作戦”だったのかもしれない…。

そう気づいたとき、胸の中にはいろんな気持ちが渦巻きました。
なんでそんなふうに頑張ってしまったんだろうという悔しさ。
あんなにも必死だった自分を思い出して、ちょっと切なくなる気持ち。
そして、そんな自分を責めたくなる気持ちと、かばいたくなる気持ちが入り混じって、しばらく整理がつきませんでした。

やさしさが習慣になるとき~人はどこかで自分を見失う~

誰かの気持ちを考えること。
空気を読んでその場をうまく収めること。
相手が困っていそうなら、何も言われなくても手を貸すこと。

それは、たしかに「やさしい人」と呼ばれる振る舞いかもしれません。

けれど、それを当たり前のように続けてきた人ほど、いつの間にか「自分の本音がわからなくなる」ことがあるんです。

「気を遣える自分」でいることが当たり前になりすぎて、
疲れていても断れない。納得していなくても笑顔で合わせる。
本当の私はどうしたいのか、何がつらいのか、私もわからなくなってしまっていた時期がありました。

やさしさは“自己否定”の裏返し?

カウンセリングでは、「やさしい人」ほど深い自己否定を抱えていることがあります。

「迷惑をかけてはいけない」
「怒られないようにしなきゃ」
「これくらい我慢できるはず」

そうした思いの背景には、「自分をそのままで受け入れてもらえるはずがない」という前提があることって実は少なくありません。

やさしくしているようで、その実態は“自分に厳しく、相手に合わせすぎる”という自己犠牲型の愛情表現になってしまっている場合があるのです。

これが慢性化すると、自分が我慢していることにも気づけなくなり、我慢に我慢が重なって、
「なんで私ばっかり…」と怒りや虚しさがある日突然爆発してしまう事もあります。

せっかくの優しさなのに、我慢の上に積み重なってしまえば、関係を壊すきっかけになってしまう…
それはとてももったいないことだと思うのです。

人との関係で「疲れてしまう人」の特徴

やさしすぎる人は、人間関係において“無意識の緊張”を抱えています。

嫌われたくないから、空気を読んでばかりいる
自分より相手を優先してしまう
不満があっても、どう伝えていいかわからない

このような状態では、たとえ良い関係に見えても、心は置いてきぼりになってしまいます。

そして、「この人とはうまくやれてる」と感じていた相手に対して、
ある日突然、強い違和感や怒りが湧く。

それは、本音の自分がずっと無視されてきたというサインかもしれません。

受け取れないとやさしさが苦しくなる

やさしさとは、本来「循環」するものであり、
差し出すことも、受け取ることも、どちらも同じ位大切なのです。

ですが、ずっと人に合わせて頑張ってきた人ほど、受け取ることに戸惑いや怖さを感じやすかったりしてしまう事が多く、いってしまえば「受け取る」ことがとても苦手だったりするのです。

誰かに頼るのが怖い
弱音を吐くのが恥ずかしい
感謝されると、なんだか申し訳なくなる

そうやって、「受け取る」事をせずに与えるという事が増えていき、いつしか「報われない」「私ばかり我慢している」という気持ちが積もっていってしまうのです。
そしてそれが積もっていって、どれだけ頑張っても報われないような気がして、やがて「私ばっかり」という気持ちが蓄積していきます。

本来、やさしさは「返ってくる」ことで安心に変わります。
一方通行のやさしさは、どこかで心を擦り減らしてしまうのです。

やさしくしなくても愛される

やさしくないと好かれない。
頑張らないと受け入れてもらえない。

そう信じていた私にとって、「やさしさを手放す」ということは、
「嫌われるかもしれない」という恐怖と向き合う作業でした。

でも本当は、やさしくしすぎなくても愛される関係は作ることができたのです。

本当に繋がりたい人との関係は、
やさしくしすぎなくても、ちゃんと育てていく事ができました

素直に「疲れた」「頼りたい」と言える関係こそが、本当に安心できるつながりなのだと思います。
そうやって少しずつ、自分を守るためのやさしさから、自分を大切にできるやさしさへと変えていけるのだと今は思います。

やさしすぎる自分を責めないで、見つめ直す

やさしくしすぎて疲れてしまう。

その背景には必ず、長い時間をかけて身につけてきた「誰かを大切にしたい気持ち」と、「自分を守るための知恵」の両方がああって、だからこそ、すぐにやめたり、切り替えたりできるものではなく、何年もかけて自分の中で育ってきたものなのだと思います。

その分、自分を緩めていくことに関しても、時間や勇気が必要になるかもしれません。

でもきっと大丈夫です。
すぐに切り替えられなくても、
「少し頑張りすぎてきたかもしれないな」と気づけたこと自体が、
きっと、心がゆるみはじめる小さなきっかけになる
のだと思います。

少しずつ、自分の本音を大切にしてみる。
小さな「疲れたな」「今日は甘えたいな」を自分に許してみる。

そんな小さな選択の積み重ねが、これからの心の柔らかさを育ててくれるのだと私は思っています。

この文章が、そのきっかけのひとつになっていれば嬉しく思います。

『がんばりすぎた心に、そろそろ優しさを』1DAYワークショップのご案内

もし今のあなたが、「誰にも弱音を吐けないまま、ここまで頑張ってきた」と感じているなら…

自分だけで抱え続けなくても大丈夫です。

時には、安心して心を緩められる場所で、そっと本音を出してみることも必要です。
それは決して甘えではなく、「自分にもやさしくしてあげる練習」なのです。

『がんばりすぎた心に、そろそろ優しさを』1DAYワークショップのご案内

このワークショップは、カウンセリングサービスの大門昌代カウンセラーがつくる、頑張ってきた人の心にそっと寄り添い、肩の荷を下ろせるような時間。

ひとりで抱えてきた「頑張らなきゃ」「ちゃんとしなきゃ」を、少しだけ置いていく練習をしてみませんか。

完璧じゃなくても、ちゃんと届くやさしさがある。
そんな感覚を、少しずつ取り戻していけると思います。

私もアシスタントとして参加します。

大阪での開催となりますので、関西方面の方、どうぞご参加お待ちしております。


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